初冬の部屋で

文学をたくさん、思う存分に語り合える仲間がほしいのです。さらに言えば、哲学でも歴史でも音楽でもよいのです。 

 

薄っぺらい偽善的な共感や同情などはいりません。ただただ、話す度に空気が高揚してくるような、己の血がうれしさに躍動するような、そんな感動を味わいたいのです。そんな人間が欲しいのです。

 

もうずっとしばらく、三年ほどでしょうか。暗い書斎にひとりぼっちで先人の書物を読み漁り、熱くなったり泣いたりしてきたけれども、その心の火もよろよろと弱くなってきたようです。勇ましく火花が飛び散り、からだまで燃えるような真っ赤な元の火に戻すには、やっぱり人間が必要なのだろうと思います。馬鹿みたいに孤独の世界に夢中になり過ぎた故に、今さらそれに気づくとは情けないことであります。

 

ですが、手当り次第誰でもよいということでもありません。そこに私の曇った日々が続く原因があるのですが、つまり、時間は有限です。命も有限です。そのなかでできるだけ楽しみたい。生きていると感じたい。人間的に成長したいのです。

 

私は二十三年の人生しか歩んでいないので、なにを偉そうにと言われても仕方がないのでございますが、「友は多ければ良いというものでもなし、はたまた、無でも生きづらい」のではないかと、そんな短い人生経験のなかで考えました。

 

それは先ほど記した、時間との関係でどうしても線引きせねばなりません。線引きというと「残酷なことを言いやがる」という罵声が飛んできそうですが、それならば「時間を使う人の優先順位を決める」とでも表現しましょうか。私の場合となるとそれが文学や歴史を話せる、広く言えばそこから未来の話ができる人間と会いたいのです。話したいのです。酒を飲みかわしたいのです。

 

それは人それぞれありましょうし、なんでもよいのです。酒を飲んで日常を忘れたいのであれば、それに付き合ってくれる最善の人間と会えば良いのです。ただ、私がそこでひとつだけ留意したいことは、「その時間が一時の快楽なのか、永遠に続く快楽なのか」です。そういう点も含めて、私は文学仲間たちと文学について、未来についてわいわい話す時間と場所は、一生の思い出になるだろうと思うのです。

 

松下村塾で学んだ志士たちや夏目漱石の山房で文壇を夢見た青年たちのことを考えても、ただ仲良しこよしで集まるのではなく、お互いが批評し、賞賛し、高め合う空間はどれだけの希望に満ちていたのか私が想像し得る以上のものだっただろうと思います。非常にうらやましく思います。

 

長々とつまらない人間関係論にまで脱線してしまいましたが、ようやくこれらのことに気付いたという話でございます。そして仲間が欲しいのです。兎に角まずは私自身の怠け腰を上げて、何かActionをせねばならないと考えつつ、頬づえつきながらぼんやりと珈琲を啜っているのです。