彼は自分を知らなかった。

彼は自分を知らなかった。

自分の影がどんなに薄いかを知らなかった。

 

彼は自分を知らなかった。

傷ついたとき、相手を憎んだ。

 

彼は自分を知らなかった。

名利私欲の世界しか歩いてこなかった。

 

彼が自分を知ったとき、

一輪の花を愛し、人を愛し、自分を愛することを幸福とした。

 

忘却と追憶

これまで、どれだけのハーパーロックを頼んできたのだろう。

大げさに数えて三百回くらい?

まあとにかく、ぼくは程よく酔ってて、外は静かに、激しい雨だ。

 

過去は、絵の具に水をたっぷりつけた筆をかき混ぜるように、朧気で、儚いものである。しかし、断片的ではあるが、その時の空気や感覚までも思い出すことがある。

 

例えば、初めてウイスキーを口にして渋い顔をした時。ビートルズに興奮した夏。かわいい彼女にふられて、枕をぐっしょり濡らすくらいに泣いた夜。思い出とは、過ぎ去ってしまえば、だいたい美しいものなんだろう。

 

そうしてまた、今夜のハーパーロックの味もぼんやり消えていくのかもしれないし、美しい記憶としてどこかで生き続けるかもしれない。

 

人々の会話とタバコの煙のなかで、ビリー・ホリデイが歌う。

そこでぼくは、忘却と追憶について考えることをやめて、明日に委ねる。

 

外は静かに、激しい雨だ。

ひとりの夜

6月に入り、いつの間に春が巡ったのかすら気づけずに僕は変わらず、ひとりだ。

 

窓を開けても変わらず、同じ時間に同じ道を歩き同じ生活をする世界の空気が、いやに部屋に舞い込むだけだ。

 

昨日はあったのだろうか、今日はあるのか、明日はどうか。

 

集団を良しとする世界に、抑圧され、歪曲され、疎外されている生に、倣うことも、従うことも、どうしてもできない。そんな僕は、生きるのがたいへん不器用なんだろう。

 

そうしてひとりの夜がきて、それらを遮断した四角い陣地に、唯一の安静を感じている。

 

小さい机上の光は、積み上げられた本と、僕の虚無感を照らしている。冷えたコーヒーも、短くなった鉛筆も、バッハのレコードも、ぼんやり光を受けて寂しく無表情だ。

 

通知を告げるスマートフォンなど今の僕には薄情連絡機器でしかなく、欲望を埋めるものは何もない。

 

頬杖をつき、時計に目をやると3時35分。もう寝なくては、明日も無気力で昼食のミートパスタを食べることになる。

 

ああ、ミートパスタが食べたくなった。深夜の空腹はどうも抑えられない。空腹には慣れきっているのだが、ひとりの夜には囁きがよく響いて困ったもんだ。

 

立ち上がって、冷蔵庫を乱雑に漁る。缶ビールが3本ある。生憎つまみはない。ちくしょー。

 

ええい、とばかりに冷えたビールを、ぐいっと喉に流し込む。

 

ひとりの夜は、滑稽。滑稽。

いやだと言えぬ空の下

いやだと言えぬ空の下。

いやだと言えば廊下に立たされ、

先生は、えへんとおおいばり。

 

それでぼくは悲しくって、うつむいて、

偽善教室のとびらをたたく。

 

それで先生は、ふんっとぼくを見下して

空の下とはこんなものかしら。

 

絵をかく時間に、ぼくはまちがって

白いねこを黒くした。

それ見て先生、つのはえる。

顔をまっかに、ぼくの腕をつかむ。

 

またまたぼくは、廊下に立たされた。

くつもシャツも絵の具だらけ。

黒いねこはにゃあとなく。

ぼくはしゃがんで、

黒いねこをかわいがる。

 

偽善教室のまどは、ひどく汚れていて

透かしてなかをのぞいたら、

みんな同じ絵、おなじゆううつな顔。

 

ぼくはわあっと泣けてきて、

黒いねこを抱きあげて、

雨降る校庭を走りだす。

 

いやだと言えぬ空の下。

黒いねこだけ、あたたかい。

黒いねこだけ、おともだち。

 

時代

ながい時代がありまして、

緑は心を映えている。

ながい時代がありまして、

海は変わらず夕陽をうつす。

ながい時代がありまして、

雪は郷愁を積もらせる。

ながい時代がありまして、

人は人を変えようとした。

ながい時代がありまして、

人は装飾に凝りすぎた。

ながい時代がありまして、

私は無邪気に生まれてきた。

ながい時代がありまして、

私はいま寂寞に戦慄する。

ながい時代がありまして、

私は慈悲も忘れてしまった。

 

川辺に座って、手を開き

めいいっぱい陽に透かす。

触れることも、見ることも

逆らうこともできないあいつらを

私は憎む。

靴音さえも鬱陶しい。

それでも川は悠然と流れて、

時代も流れると知ったとき、

私は怠惰の美徳を言い訳する。

夜街のデート

あなたの雪のように白い足が、

まちの灯りを魅了する。

下品な電光看板も

あなたの微笑に目がくらむ。

 

楽譜のまちを歩いてく。

ト音記号がきみの右手で

ヘ音記号が左手で

小さな指輪は星を誘う。

 

漆黒の長い髪はヴァイオリン。

甘い香りは花束となって

アスファルトを赤やピンクに埋め尽くす。

 

あなたのシャイで

蝶のような二重の目は

ティファニーのウィンドウもひざまずく。

 

あなたの足は

指揮棒を美しくふって

街頭をシャンデリアで彩って、

陰気な車をかぼちゃの馬車にする。

 

まちもぼくも

愛の音楽に赤面しながら手を握る。

もしも明日がこなければ

もしも明日がこなければ、

母の手を握るだろう。

もしも明日がこなければ、

おばあちゃんと散歩するだろう。

もしも明日がこなければ、

故郷を自転車で駆けるだろう。

もしも明日がこなければ、

四弦を空に奏でるだろう。

もしも明日がこなければ、

並んだ本に涙するだろう。

もしも明日がこなければ、

星の数を数えるだろう。

もしも明日がこなければ、

あなたに手紙を残すだろう。

もしも明日がこなければ、

カレーライスを食べるだろう。

もしも明日がこなければ、

あなたに好きだと伝えるだろう。

もしも明日がこなければ、

ゆっくりコーヒーを味わうだろう。

もしも明日がこなければ、

一枚のレコードを見つめるだろう。

もしも明日がこなければ、

木々の緑に微笑むだろう。

もしも明日がこなければ、

携帯電話を川に捨てるだろう。

もしも明日がこなければ、

じぶんの世界をつくるだろう。

もしも明日がこなければ、

神様の目を見つめるだろう。

もしも明日がこなければ、

風にさよならと告げるだろう。

 

明日は来ると、だれが言った。