無人島

一日に、すべてを明るく肯定し尽くすような光で照らされることもあれば、こころまで濡らすつめたい雨が降ることもある。まあ、大概は雲がどんより横たわっているがね。

 

僕はこの島に、なんの意志もなく流されるまま小さな筏でやってきて、いつもいつも浜辺でしょんぼり座り込んで、頭上を無邪気に飛びまわる鳥を眺めている。

 

時には、いや、日に幾度かは誰かが遠くの沖からやってきて、僕を見つけては話しかけることがある。その度に僕はびくびくとしながらため息混じりに「どうも」と小さく答える。話しかけてくる人々の誰もが、能天気でなんにも悩むことがなさそうに見える。

 

昨日の曇った暮れがけのころ、僕の横にどさっと横暴に座った男は汚れたリュックサックからウイスキーの瓶を取りだし「まあ、飲みたまえ。せっかくの縁だ。」と、底から丸裸で出てきた埃がかったグラスをぼくの手に渡し、どぼどぼと注いだ。そしてワハハッと歯をむき出しながら快活に、学生のころの色情の話やら、日々の事業がいかに偉大であるかを語り聞かした。

 

はじめは、ぼそぼそと相槌していたが気がつけばまた鳥を見つめていた。鳥は鳥であることが幸せなんだろうか、と考えたりしていた。

 

「君、サ、飲みたまえよ。どうだい楽しくなるだろう。」男はもう顔を赤くしている。僕はそれでも、ちらっと男に微笑を投げただけでぼんやりしていた。すると男が「君はなにを考えているんだ。」とぐわっと酒くさい顔を近付けてきた。

 

「なにを、なにをでしょうかね。とにかくひとりでじっとしているのがいいんです。」と僕が言うと「なんだ、せっかくうじうじしてるところを晴らしてやろうとしたのに。きっと君はなにも成すことができん人間だな。」と気焔に任せて言い放ち、立ち去っていった。

 

この島に来てからそんなことばかりだ。僕はさらっとした砂を握って立ち上がり、空を悠々と飛ぶ鳥に投げつけた。もちろん届きはしなかった。

 

涙が溢れた。が、もうどこにも、行くあてもなく、またしゃがんだ。

読書について(小さな幸福)

映画やアニメが好きなひと、日常的に観ている人は多い。

けれど「読書が趣味です。」とハッキリ言う人はそれに比べると少ないと思う。

 

それが良いとか悪いとかではない。

ぼくも映画が好きだし、一部作品によっては熱狂的なアニメオタクだ。

 

ただ、読書が好きで、かつ将来的に古本屋開業を目指している身として、それはなぜなのか考えてみることは必要だ。

 

まず、ひとつ挙げられるのは、

「読書は、作品と読者が一体となってようやく成り立つ」ことが大きいだろう。

岡崎武志さんのなにかの本で書いてあった表現を借りると、「読書は不便」だということだ。

 

映画やアニメなどは、作品がほとんどの情報を与えてくれる。

山も、川も、人の表情も。

 

けれど例えば小説の場合、そのような外面的なことでも読者の想像を要する。

そのうえ、心理描写などもある。

 

想像することはある程度頭を使うし、知らない漢字や言葉が出てきたら一旦物語がストップする。

その時にそれを「めんどくさい」と思った経験をした人は少なくないだろう。

ぼく自身も読書を始めた頃は、これに悩まされた。

 

だから、「本を買ったけど読めてない。」という人のなかにはこのような理由の人もいるのではないだろうか。

 

けれど、せっかく味わおうとした物語を「めんどくさい」または「難しい」というだけで放棄してしまうのは、非常に勿体ない。

それを乗り越えれば、一生の趣味になるかもしれないのに。

 

まったく読書をしなかった頃から、今日までの読書好きになったぼくの限られた経験ではあるがそう思う。

 

ただ、読書を「しなければいけない」となるのが一番よろしくない。

その時点でむしろ読書が嫌いになる可能性があり、それだけは避けるべきだ。

 

ぼくは知らない言葉や漢字が出てきたとき、「めんどくさい」と思う前にすぐに辞書で調べるようにしている。スマホで検索でもいい。

そして、「知らなかったことを知る喜び」を調べる度に感じている。

 

たったひとつの言葉だけれども、昨日の自分は知らなかったことを今日知った。それだけで、なにかわからないがとりあえず「前進」していると思える。

 

人間は言葉を話せるし、字を書くこともできる。

 

ぼくが思うに、日常で使わないとしても同じ人間がつくった言葉を知ることは無駄ではない。

 

今まで出会った読書好きの人たちに共通する印象として、「小さな幸福を幸福と思える人」が多い。

 

誰かに優しくされたとき、共通の話題で盛り上がったとき、そして知らなかったことを知ったとき…。

人一番「楽しい」と思える。

そんな人が読書好きな人に多い気がする。

 

その「小さな幸福」が重なれば、その人はとても魅力的な人間になるだろう。

だって、自分自身を満たす術(すべ)を無意識でも知っているのだから。

 

先ほども言ったように、読書は強制されるものではない。

が、その「小さな幸福」が一冊の本でも、

たくさん詰まっていることだけは知っていてほしい。

 

※思ったことを一気に書いたので誤字・脱字や、間違った表現があるかもしれません。ご了承ください。

ホテルのソファにて


古本屋をやろうと思い立って、

そのレールに乗ると決意して、はや1年半。

本々堂に本格的に弟子入りしてからはや4ヶ月。

 

自分のしたいこと、やりたいことに集中できている日々。いや、集中させてもらっていると言う方が正しい。

祖父母、親、地元でお世話になった方々、親友、彼女、本々堂の店長さんとスタッフさん。

ふとひとりになった時、その人たちが応援してくださることに思わず涙がこぼれることもある。

 

決意してから、いろんなことを犠牲にした故に失敗し、自分を責めることもあった。人を傷つけたこともあった。お酒に溺れてしまったこともあった。

おそらくこれからもそんな時が時々やって来るだろう。

 

僕が目的地に設定した場所は、思っていたよりも長かった。険しかった。

なんとか毎日歩いているうち、とてつもない不安という名の、日も地に当たらない深い森や霧を前にして立ちすくむ。

 

それでも、進もうと思う。進まなければ、良くも悪くも変化はない。こわいけど、進むんだ。

 

そんなとき、支えの風が僕の背中を押してくれ、本が道を照らしてくれる。

 

それに助けられ、信じ、いまは進むしかない。

一寸先は闇。けれども一寸ずつ進めばいいじゃないか。

明日も、のんびりゆっくり、けれども強い思いを持ってまた道を行くのだ。

 

2021 4/21 大分、別府

某ホテルのロビーにあるソファにて。

 

23歳の肖像

毎日、毎日、空はグレーだった。

思いっきり、斜光を突きつける訳でもなく、

嘲笑うように、からだを濡らすのでもなく…

いっそのこと吹き飛ばされ、消え去るといいとすら思ってたが、それすらも。

 

まちに出ても、無愛想な空気に嫌気がした。

通りを歩く人々は、なにを欲し、なにに生きようとしているのだろう。

 

ああ、道を、ぼくの行くべき道を、照らしてほしい。

真っ暗闇ならまだましだ。

茫洋とした霧よ、散ってくれ。

 

ぼくは、疲れた足で、湖の見える野原まで来た時、慟哭した。

土を掴み、鼻水は垂れ、いつしか夢に入った。

 

故郷のことを想った。

幼き、愛されたぼく自身を羨んだ。

熱狂的な恋すらも、微笑ましかった。

 

ぼんやり目を開くと、野原で、両手を広げていた。

風もなく、鳥の歌も聴こえず、泣くことも尽きてしまったぼくは、

動かぬ無常の空を、ただ見つめていた。

 

遠くで、母と子のはしゃぐ、声がした。

午前4:27

浮かない顔つきで赤信号を待つ。

夜寒に震える子猫のように。

 

せめて魂は美しくありたいと思う。

これを失っちゃあ取り戻すか死ぬかだ。

生きていても死んだようなやつもいる。

死んだはずなのに生きてるようなやつもいる。

この違はなんでしょう。

 

信号が青になった。

アルコールを抱えたからだには、この横断歩道すら億劫になる。頭も痛い。

とぼとぼ寂しく歩きながら、冷たい風に首はちぢこまる。

それでも魂だけは暖かくありたいと思う。

一日は短い、一生も短い。誰にでも優しくなんてしてられない。おれのことで精一杯なんだ。

だけどせめて笑顔だけは見せたいものだ。

 

光、在れ!

と口に出したとて朝日はまだ出てこないようだ。神様も眠ってるらしい。

人生ってこんなもんかねえ。

 

初冬の部屋で

文学をたくさん、思う存分に語り合える仲間がほしいのです。さらに言えば、哲学でも歴史でも音楽でもよいのです。 

 

薄っぺらい偽善的な共感や同情などはいりません。ただただ、話す度に空気が高揚してくるような、己の血がうれしさに躍動するような、そんな感動を味わいたいのです。そんな人間が欲しいのです。

 

もうずっとしばらく、三年ほどでしょうか。暗い書斎にひとりぼっちで先人の書物を読み漁り、熱くなったり泣いたりしてきたけれども、その心の火もよろよろと弱くなってきたようです。勇ましく火花が飛び散り、からだまで燃えるような真っ赤な元の火に戻すには、やっぱり人間が必要なのだろうと思います。馬鹿みたいに孤独の世界に夢中になり過ぎた故に、今さらそれに気づくとは情けないことであります。

 

ですが、手当り次第誰でもよいということでもありません。そこに私の曇った日々が続く原因があるのですが、つまり、時間は有限です。命も有限です。そのなかでできるだけ楽しみたい。生きていると感じたい。人間的に成長したいのです。

 

私は二十三年の人生しか歩んでいないので、なにを偉そうにと言われても仕方がないのでございますが、「友は多ければ良いというものでもなし、はたまた、無でも生きづらい」のではないかと、そんな短い人生経験のなかで考えました。

 

それは先ほど記した、時間との関係でどうしても線引きせねばなりません。線引きというと「残酷なことを言いやがる」という罵声が飛んできそうですが、それならば「時間を使う人の優先順位を決める」とでも表現しましょうか。私の場合となるとそれが文学や歴史を話せる、広く言えばそこから未来の話ができる人間と会いたいのです。話したいのです。酒を飲みかわしたいのです。

 

それは人それぞれありましょうし、なんでもよいのです。酒を飲んで日常を忘れたいのであれば、それに付き合ってくれる最善の人間と会えば良いのです。ただ、私がそこでひとつだけ留意したいことは、「その時間が一時の快楽なのか、永遠に続く快楽なのか」です。そういう点も含めて、私は文学仲間たちと文学について、未来についてわいわい話す時間と場所は、一生の思い出になるだろうと思うのです。

 

松下村塾で学んだ志士たちや夏目漱石の山房で文壇を夢見た青年たちのことを考えても、ただ仲良しこよしで集まるのではなく、お互いが批評し、賞賛し、高め合う空間はどれだけの希望に満ちていたのか私が想像し得る以上のものだっただろうと思います。非常にうらやましく思います。

 

長々とつまらない人間関係論にまで脱線してしまいましたが、ようやくこれらのことに気付いたという話でございます。そして仲間が欲しいのです。兎に角まずは私自身の怠け腰を上げて、何かActionをせねばならないと考えつつ、頬づえつきながらぼんやりと珈琲を啜っているのです。

孤独の前奏曲

静かな書斎で、泣いた。

孤独は案外苦しいもので、逃げ出してしまうことが屡々ある。研がれ磨かれた輝く玉のような孤独を求めているにも関わらず。

お人好しが誰かの前に座らせる。そしてくだらぬ話をふっかける。

私が私自身を飼い慣らすこともできず、逃げ回る私に困らされる。そして街が眠る頃、恐ろしいニヒリズムが私を襲う。

そんな悪魔を払い除けようと無我夢中で本たちに希望を乞うが、気のつかぬ間に背中から孤独がやってくる。ぐさっと私の肉体をえぐる。

悔しくて悔しくて堪らなくなり、血に濡れた額を机に擦り付けながら、涙を流す。

なんと愚かな姿であろうか!これが孤独を願う者の姿なのか!

それともこれが孤独を求めるものの煩悶の姿なのか!それならば、神は私を見捨てはしないだろう!さあ私に恵みの孤独を!

孤独!孤独!孤独!

 

一台の車が通り過ぎた。小さなスタンドライトの下で私は目を閉じた。

せめて夢では、せめて夢では…。