桃色の鼓動

駅でゆらゆら、なんにもないけど海のような空を見る。

小さく飛行機が滑ってる。

時計だけが僕をなだめる。

 

凛とした微笑の蝶が来た。

美しい花ではないけど、いいのかな!

くっついても馬鹿にされないかな!

 

桃色の鼓動が

草木を抜けて、僕を包む。

 

(学生時代の恋愛より)

Kid A

それはぼくを揺らし、

ぼくをどこまでも軽蔑する。

それはぼくを踊らせ、

ぼくをいつまでも解放する。

 

夜空がぼくに「おかえり」と言う。

月はただただ手を握る。

恍惚と耽美が手足を祝福する。

天使がいたずらにシャツの袖を掴む。

悪魔がワインをこぼす。

 

空を僕は愛撫する。

ひたすら、踊りながら。

ペヤング焼きそば

段ボールを開けると、故郷のあたたかい香りがする。

 

トイレットペーパー、洗濯用品、チョコレート、お茶漬け、頼んでおいたインスタントコーヒー。

そして、小さいころから好きだったペヤング焼きそばが六つ、母からの手紙。

 

夕方に降る雨の音と、寂しく見つめてくる台所の電気は、手の血管をいやに浮き立たせる。

 

ひとつ、ため息とも感動とも取れる呼吸をして、それらを取り出す。生活が溢れている。

 

本をじっと読み続け、ぼんやりしていた僕はお腹が減っていることにふと気付く。

読書は空腹すら忘れるらしい。

 

さっそく、ひとつペヤング焼きそばを食べることにした。

お湯が沸くまで、谷川俊太郎の詩を読んだ。わかってるのかわかってないのかわからない。

お湯を注いで、三分待つ。

谷川俊太郎の詩を読んだ。やっぱり、わかっているのかわかってないのかわからない。

なにかは感じた。

 

できごろになり、お湯を捨てる。

湯切り口を発明した人は、変わった人なんだろうと思う。

 

スパイスを、香水のように振りまけて

食べましょう。

 

うん、故郷の長い記憶の、味がする。

風にのって

頭に浮かんだプレゼント。

「どこから来たの?」

そのプレゼントは、いやらしく

ちょっといたずらで

届かないところに浮かんでる。

 

「なんでそんなことするんだい!」

頭のなかでぼくは泣く。

それでもプレゼントはぷわぷわ浮かんでる。

 

「おばぁちゃんに借りて、はしごを使おう!」

 

うえへうえへ、へっさかほいさ。

もうちょっと、もうちょっと。

そのとき、無言で飛んでくプレゼント。

風にのって飛んでく、綿毛のようなプレゼント。

 

頭の中で、ぼくは泣く。

オードリー・ヘプバーン

オードリー・ヘプバーン

いつからか、いつまでも踊るバレリーナ

人を美しく戦慄させる、蝶のような目。

触れたくなる儚いくちびる。

手を巻いては、折れてしまいそうな彼女。

明日は一緒に朝食へいこう。

決して溶けない、ぼくの王女。

オードリー・ヘプバーン

迷子

独りの時間がほとんど、いや、全てと言っていい生活を過ごしていると。

いやなくらい自分の情けなさが露呈してくる。

なんだか不機嫌なのは確かではあるけども、なぜ不機嫌なのかが掴めない。

行動が足りないのかもしれない。

未来への道が雑草に埋もれていることの不安かもしれない。

考えすぎということもあろう。

 

良くも悪くも、地位とか名誉とか世間体とかが本当にどうなっても構わないと思っている。

例えば結婚、その前のお付き合いという過程でも、人はなぜ愛するのかすら分からなくなってた。

というのも、いくつになれば結婚しなければいけない、子どもを産みたい、家を建てたい。そういった、通俗的な(子どもに関しては本能的なところもあるが)目に見えぬ規則のようなものが理解できなくなってきた。

交友にしても、よく分からない。

危険かもしれぬ。

 

一日の大半を読書に費やしているが、なんとそれが心地いいものか。先人や偉人の言葉、歴史に触れることが僕の一番の快楽である。

だが、それがこの現実世界とどこまでも離れていくY字路を歩いているようで、独り迷子の気分である。

極端な表現かもしれないが、万物の中で読書が最も信頼できる。裏切られることはほぼない。その安心感に身をあずけているのだ。頼っているのだ。甘えているのだ。

 

ああ、夏目漱石のような、室生犀星のような、はたまた吉田松陰のような、セネカのような先生たちに現実世界で会話したい。

ああ、なんという煩悶であろう。

 

共感も同情も要らぬ。

 

ようするに、現実世界と自己思考に大きく違和感があるということだ。と思う。

苦しい。とは言わないでおこう。

ただ、ぼんやりと不機嫌なのである。

ある喫茶店

自宅から歩いて五分くらいにある喫茶店

 

ビルやらコンビニやら牛丼屋が立ち並ぶなかで、ひっそりとして、どこか懐かしさを感じる洋風な入口。紳士的な印象さえ受ける。

 

店内には新聞紙を広げる常連客と思われる老人と、なにか電話で話し込んでいるサラリーマンが煙草をふかしている。

そしてカウンターには、眼鏡をかけすらっとした長身の、大人しいけれども安心を与える微笑みを持つ七十代ぐらいのマスターが珈琲をいれている。

また、そのマスターの奥さんと思われる女性がこちらも優しい笑みで迎えてくれる。主にこの奥さんが僕たちお客の面倒をみてくれるのだ。

 

僕はいつも二人席に座り、メニューも見ずにブレンド珈琲を注文し、向かいのいすにリュックサックを置いてゆったりと落ち着く。

外套のポケットに常備しているペン、リュックサックからノートや読むわけでもないのに持ち歩く数冊の本をテーブルにどさっと置く。柔らかい照明とかすかに耳に触れるジャズが本とうまく調和しているようだ。

 

珈琲がやってきて、すぐには飲まない。熱さが苦手だからである。猫舌というものだと思う。

ぼーっと、換気のために開けられている窓の外の大通りを眺める。今日はたいへん太陽が元気で、人々を活発にさせていた。往来はにぎやかで、バスの到着のアナウンス、前を通る人の会話、また、どこか遠くで工事をしているらしい。

それらが不思議に混ざり合い、この静かなジャズの流れる喫茶店に空気と一緒にすーっと入ってくる。

 

少しばかりそうして眺めているうち、珈琲が飲みごろになった。苦味が程よく、その中に優しく酸味があるのがこの喫茶店の珈琲である。

さて、とようやく本に手をつける。

今日は読みかけの室生犀星を読むことにした。

気がつけば、まるで眠りに落ちるかのように僕はその小説の世界に入り込んだ。

 

午後の優しい静けさと、珈琲豆の香りが、活字を潤している。